これと決めて、学生のうちにしかできないことを
今回はラグビージャーナリストの村上晃一さん(50才)。解説者、編集者、ライターそしてブロガーとしてラグビーファンなら誰もが知る存在です。元ラグビーマガジン編集長でありながら、精力的に様々なラグビーシーンでお仕事をされる心構えや、今に至る経歴などをお聞きしました。
現在の仕事内容
−−現在のお仕事を教えてください。
村上 フリーのラグビージャーナリスト、ということになります。ラグビーマガジンを辞めて、フリーになってすぐJ-Sportsの解説をすることになったんです。それで肩書を考えなきゃいけなくて。いつまでも「元ラグビーマガジン編集長」というわけにはいきませんから。
−−ラグビーマガジンの編集長をされていたんですね
村上 大阪体育大学を卒業して新卒でベースボール・マガジン社に入社しました。マスコミは人気の職種なので、編集部は高学歴のエリート揃い。そんな中に大体大のバイスキャプテンをしていた僕が入ったから珍しかったんだと思います。みんなが言うことを聞いてくれて。25歳の時に編集長になってました。
−−すごいスピード出世ですね
村上 若すぎるので名刺を渡すと多くの人に「え?!」っという反応をされました(笑)6年間、編集長をして出版局へ。その後、1998年6月、33歳の時にラグビーマガジンを辞めてフリーになりました。
−−絵に描いたような出世コースを捨てて、フリーに?
村上 出版局で様々なスポーツの単行本を作っていたのですが、やはりラグビーの現場に関わっていたくなって。それでフリーになりました。
−−周囲の反対はなかったですか?
村上 迷っているときは「辞めない方がいい」と誰に相談しても言われました。ただ会社にいて編集長よりも上にとなると、ラグビー以外のこともしなきゃいけない。僕はラグビーのことだけしようと決めていたので、辞めるしかなかった。ありがたいことに辞めると決めてからは、周りがみんな助けてくれました。
プレイヤーとして
−−ラグビーはいつからはじめられましたか
村上 小学校5年生の時に京都ラグビースクールに入って、ラグビーをはじめました。もっと前から父と観戦はしていましたが、なぜか4年生のとき急にかっこ良く見えたんです。それから毎週日曜日は西京極か吉祥院で練習。そこに山口良治さんがコーチに来てくださっていて。
−−元日本代表で伏見工業高校監督の山口さんですね
村上 とにかく素晴らしい指導で。それですっかりはまっちゃいました。中学はラグビー部がなかったので陸上部に入部しましたが、高校で再開。京都府立鴨沂高校です。高校でも沢山のいい指導者の方に巡りあえて、将来は体育の先生になって指導したいなと思うようになりました。
−−それで大阪体育大学へ進学
村上 坂田好弘先生(元日本代表・現関西ラグビー協会会長)の下でラグビーができるし、強豪ですし。幸いにも3年の時に、同志社大の関西大学リーグ連勝記録を71でストップさせた試合に出場していました。そのまま関西大学リーグで初優勝。4年の時はバイスキャプテンとして優勝は逃しましたが、大学選手権に出場してラトゥ(元日本代表)や飯島(元三洋電機監督)がいる大東文化大学と対戦しました。
−−ポジションはバックスですよね?
村上 高校の時、京都府のベストフィフティーンに選んでもらった時は13番。大学時代は15番です。
−−強豪校のレギュラーとなると社会人からの誘いもあったかと思うのですが
村上 4年の春の時点で、監督から「フルバックがほしいと数社から打診がある」と言われたんですが「学校の先生になるか、ベースボール・マガジン社に行くかなのでいいです」と断ったんですよ。
ジャーナリストの誕生
−−将来のビジョンに「指導者」だけでなく「マスコミ」が追加されました
村上 大学でスポーツジャーナリズムに関する授業があったんですね。各新聞がどうスポーツを取り上げているかを学んで、大体大のスポーツ新聞のようなものを実習で作るというものでした。記事を書いたり、見出しを考えたり。それが本当に楽しかった。先生も「村上、マスコミ行けるかもね」と褒めてくれたんですよ。
−−それで一気に傾いた
村上 他のスポーツ新聞も受けるかと聞かれたんですが「僕はベースボール・マガジン社だけ受けます」と言いました。ラグビーマガジン以外なら、指導者を目指そうと。それで先生から学長、ベースボール・マガジン社の社長と話が伝わり、入社試験を受けたんです。
−−ラグビーへの強いこだわりを感じます
村上 ラグビーによって、人生に大切なことをすべて学んだ気がします。目標に向かって練習に耐えること、仲間と協力すること、自分より力が上の選手に出会った挫折感。他にも様々な。それを教えてくれたラグビーと共に生きていこうと思ったんです。
−−ラグビー以外の仕事はされないんですか
村上 ずっとラグビーにいようと決めています。ラグビーから、何にでも通じることを発信していきたいですね。
−−ブログの存在も欠かせません
村上 今年始めてちょうど10年になります。ラグビーマガジンの頃は専門用語を使わず、世の中全てに共通することを書かなきゃと思っていました。それは今も変わらないんですが、ブログだとファンの方の声が直接入ってくる。そして「自分はラグビーの入り口にいよう」と思い、ブログ開設1年後にトークライブをはじめたんです。
ラグビー選手の進路と現役の選手たちへ
−−ターニングポイントに多くの方が登場されます
村上 就職するときも、フリーになる時も、もちろん今も沢山の人にお世話になっています。今思うと、僕は「これをやる」と決めていました。あれもこれもというのではなく、これからもラグビーしかやらないと。周りからすると、助けやすかったんだと思うんですよね。
−−今、現役の大学生へ「これをした方がいい」というメッセージはありますか
村上 実際に学生さんから同じことを聞かれます。僕は「学生時代しかできないことをやっておく方がいい」と言います。ラグビー部なら、チームが日本一になるために今自分ができることを一生懸命にやる。レギュラー、控え、マネージャーそれぞれの立場で、組織の中で自分のできることを見つけ全力で。「僕はそんな人間がほしい」と、ラグビーマガジン時代には言っていました。
−−なるほど、自分の芯を決めて、組織のためにできることを懸命にやることが、どんな世界に行っても役立つということですね
誰よりもラグビーに関わり続ける村上さんは、誰よりも強くラグビーを信じ、守り伝えゲームメイクまで行う、頼れるフルバックそのものでした。
今回のRugbyWorker情報
村上晃一 ブログ:ラグビー愛好日記
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